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悪魔の証明(あくまのしょうめい)とは、多義的な言葉であるが、概ね以下のような意味に使われる。 所有権帰属の証明の困難性を比喩的に表現した言葉 事実の有無に争いがある場合、多くの場合、「積極的事実」(ある事実が存在すること)を主張する者に証明をさせるべきであり、「消極的事実」(ある事実が存在しないこと)を主張する者に証明をさせるのは妥当でない場合が多いということを比喩的に表現した言葉 この表現は、ラテン語の probatio diabolica に由来しており、古くは中世ヨーロッパにおいて、土地の所有権の帰属を証明する際に、当該所有権の由来を遡って逐一立証することは不可能であることを指して用いられた。日本の民法学においても物権法の分野ではそのような意味で現在でも使われている。しかし、それが転用され、民事訴訟法学者の兼子一らによって、上記のような消極的事実の証明の困難性を指して比喩的に用いられる例として使われるに至り、現在ではより広く、証明が極めて困難であること又は不可能であることの比喩として用いられている。
一般的用法と消極的事実の証明 事実の有無の証明が問題になる場合、ある事実がある(積極的事実)と主張する側が当該事実の存在を証明する必要があり、相手方側がないこと(消極的事実)を証明する必要はないとするのが、多くの場面で妥当すると理解されている。 なぜなら、「あることの証明」は、特定の「あること」を一例でも提示すればすむが、「ないことの証明」は、厳密には全称命題の証明であり、全ての存在・可能性について「ないこと」を示さねばならないためである。すなわち、「ないことの証明」は「あることの証明」に比べ、一般に困難である場合が多い(検証と反証の非対称性)。この「ないことの証明」(消極的事実の証明)について、その立証の困難さから「悪魔の証明」という表現が比喩的に用いられている。 例:第二次世界大戦では鎖鎌を武器にした兵士がいた。 これを「ないこと」として否定する場合は第二次世界大戦に参加した人間全てを調べなければいけない。しかしそのような調査は実行不可能である。一方、一人でも鎖鎌を使った人間がいることを証拠により裏付けられれば、「あること」の証明は可能である。 もっとも、事実が積極的事実か消極的事実かは、議論においてFX すべき要素の一つに過ぎず、何らかの理由によりがそれを容易に証明できる場合には、当該当事者に「ある事実がないこと」を証明させるのが妥当な場合もある。 例:江戸時代には、ケガの治療に抗生物質が使われていた。 この例は明らかに事実と矛盾する別の事実を示すことができ、「ないこと」の証明が可能な場合である。 なお、民事訴訟においては、ローゼンベルクの証明責任論以来、権利関係の変動の原因たる事実を主張する方にその証明責任を負わせるべきとの考え方が支配的であり、刑事訴訟においても、証拠収集能力の偏在とか、訴訟追行が拙かったことにより有罪になることの問題などが考慮されて挙証責任の問題が考えられているのであり、積極的事実か消極的事実かによって証明責任・挙証責任の分配を考える手法は採られていない。
批判的な用法と反論との区別
批判的な用法 悪魔の証明という言葉は、消極的事実の証明の困難性にもかかわらず、積極的事実を主張する者に対する批判として用いられている。 例:月の裏側には、ウサギが存在する。なぜなら月の裏側にウサギはいないという証拠がないからだ。 しかし、このような理由付けは、「月の裏側には、ウサギが存在する。」という日経225 を前提としなければ成り立たない。なぜなら、「月の裏側には、ウサギはいない。」という証拠がないことによって、「月の裏側には、ウサギが存在する。」ことが証明されたことにはならないからである。もし、このような論法により、あるものの存在が認められるとすると、ほぼどんなものでも存在すると言えてしまう。 ただし、この例題においては、仮に「月の裏側には、ウサギが存在する。」ことが先に根拠を以て主張されているのであれば、「月の裏側には、ウサギはいない。」ことの立証は、厳密には消極的事実の証明ではなく、積極的事実の立証に対する反論(否認)となる。反論者はウサギが存在することに関して当初提示された根拠を検証し、根拠を以て反論すれば良く、「ないことの根拠」を提出する範囲が限定される。 根拠を以て「ウサギが存在する」ことを主張し、根拠のある反論を求めることは議論において正当な方法であって、このような場合を指して「悪魔の証明」とするのは誤用である。
語の由来 この語はもともと、中世ヨーロッパの法学者が、「古代ローマ法において所有権の帰属を証明することが極めて困難であった」という学説を主張するにあたり、比喩として用いたものである。 所有権の帰属を証明するためには、原始取得の場合を除き、前の所有者から所有権を譲り受けたことの証明を要するとされている。ところが、前の所有者にそもそも所有権が帰属していたことについて争われた場合は、その者がさらに前の所有者から所有権を譲り受けたことの証明が必要になる。さらにその前の所有権が争われた場合はその前の…と、無限後退に陥ってしまう。このようなことから所有権の証明は極めて困難であったと説明するのである。 ただし、現在では権利外観理論や権利公示制度の発達により、ローマ法における悪魔の証明という事態は起きなくなっている。ただし、権利の存在を推定する規定がある場合、理屈の上では、権利の不存在を否定するためには、あらゆる原因による権利の発生原因たる事実が不存在であること、発生した権利が消滅した場合であっても、その後さらにあらゆる原因による権利の発生原因事実が発生していないことを証明しなければならないことになる。そのようなこともあり、権利の不存在の証明について悪魔の証明という語が日本の法学界で使われることがある。
ヘンペルのカラスとは、カール・ヘンペルが提出した、科学における帰納法的実証の手続き上のアポリアを指摘した問題。「カラスのパラドックス」とも呼ばれるが、パラドックスとして扱うべきかどうかには異論もあるため、本稿ではこの呼び方を避ける。
概要 「ヘンペルのカラス」は「カラスは黒い」事を証明する以下のような対偶論法を指す。 全称命題「全てのカラスは黒い」(「全てのxがカラスであるならば、全てのxは黒い」)いう命題はその対偶「黒くないものはカラスでない」(「全てのxが黒くないならば、全てのxはカラスではない」)と同値であるので、「カラスは黒い」事を証明するには「黒くないものはカラスでない」事を証明すれば良い。 そして「黒くないものはカラスでない」という命題は、世界中の黒くないものを順に調べ、それらの中に一つもカラスがない事をチェックすれば証明する事ができる。 こうして、カラスを一羽も調べる事無く、「カラスは黒い」という事実が証明できてしまう。 こうした一見、素朴な直観に反する論法を指摘したのが「ヘンペルのカラス」である。 ときに「ヘンペルのカラス」は、それがまるで対偶論法の間違いを指摘した論法であるかのような誤った解説がなされる事があるが、本来はそうではない。 合理的・論理的でないのは人間の直観の方で、対偶論法にしろ「ヘンペルのカラス」にしろ数学的に何の問題もない論法である。 つまり正しくは、「ヘンペルのカラス」は人間の直観の危うさの方を指摘した論法なのだと言える。
なぜ直観に反するか 黒くなくカラスでない「ヘンペルのカラス」が直観に反してしまう投資信託 の一つとして、「黒くないもの」の数が想像を絶して大きいことが挙げられる。 通常の命題の場合、その命題の真偽を確かめるには個々の事例を全て調べ尽くすことができればよい。命題の正しさの信頼度合は、調べた事例のパーセンテージに比例して上がって行く(確証性の原理)。 しかし「黒くないものはカラスではない」という命題の外国為替証拠金取引 を調べる場合はこうはいかない。「黒くないもの」の数は想像を絶して大きいので、「黒くないもの」を何千、何万と調べても、「黒くないものはカラスではない」という命題の信頼性はほとんど上がらない。 このため「黒くないもの」を全部調べた気分に浸れず、「ヘンペルのカラス」が逆理に見えてしまうのである。 実際、「黒くないもの」の数がもっと常識的な数であれば、ヘンペルの論法も不自然には感じられない。例として「この部屋のカラスは黒い」事をヘンペルの論法で証明してみよう。今例えば部屋に10種類のものがあり、その中の一つがカラスであるとする。「黒くないものはカラスでない」事を証明するため、あなたの友人が部屋の中の黒くないものを順にあなたに手渡す。カラス以外の9種類があなたに手渡された時点で、友人が「部屋にはもう黒くないものはない」と宣言する。これはすなわち、部屋に残ったカラスは“黒くないもの以外(=黒いもの)”だという事であり、よってカラスが黒い事が結論される(なお、部屋の中にカラス以外の黒いものが存在した場合にも、同様の論法でカラスが黒い事が結論される)。
直観主義論理との関係 以上の説明で分かるように、対偶論法は(間違ってはいないものの)ある種の危うさを持った論法だと言える。 この辺の事情をつきつめて考えたのが直観主義論理学である。 前節の説明では、宇宙にあるものの数は有限である事を暗に仮定していたのだが、この仮定を外して逆に宇宙には無限のものがあると仮定すると途端に事情が異なってくる。「黒くないものはカラスでない」事を証明するために「黒くないもの」が順にあなたに手渡されても、「黒くないもの」は無限にあるのでこの作業は永遠に終わらない。つまり「黒くないものはカラスでない」事は永久に証明されず、ヘンペルの論法で「カラスは黒い」事を証明することはできなくなる。 通常の論理学では、この作業が不可能であるにもかかわらず、なぜかヘンペルの論法(特にその核心部分である対偶論法)を正しいと認めてしまっている。つまり通常の論理学では、無限個あるはずの「黒くないもの」をチェックするという、超越的な操作の存在を暗に仮定してしまっているのである(だからといって間違っているわけではないが、感覚的には奇妙である)。 そこでこうした超越的な操作や奇妙さを取り除いた、より「直観に合致する」論理学を(通常の論理学とは別に)作ってもよいはずだ。ヘンペルの論法のような超越的な操作を必要とする証明が可能になってしまったのは、ヘンペルの論法の核心部分である対偶論法が原因である。よって対偶論法を認めないという立場をとりさえすれば、こうした超越操作や奇妙さが取り除かれるはずなのだ。 直観主義論理学はこのような事情を踏まえた上で作られた論理学で、直観主義論理とは対偶論法から演繹される事実を普通の論理学体系から取り去ったものの事である。
白いカラスの実在 論理学におけるヘンペルの指摘とは本質的に無関係ではあるが、アルビノもしくは白変種のカラス、すなわち「黒くない」カラスは実在する[1]。また、東南アジアに生息するカラスの多くは、腹が白い、全体に灰色であるなど、黒一色でない。
実証主義(独:Positivismus、英:positivism、仏:positivisme)とは、哲学上の学派の一つ。「Verificationism」と「Positivism」を区別するため肯定主義と訳されることもある。19世紀以降の自然科学・工学の長足の進歩と社会的成功を踏まえ、知識の形態として有効かつ知識を統一しうるものとして科学に特権的地位を見出す考え方。
を意味する「positive」は、もともと「(神によって)置かれた」を意味するラテン語「positivius」に由来する。この原義から転じて、実証主義における肯定とは、経験的に裏付けられたものを意味し、その対義語は否定的、すなわち形而上学的である。
意味と背景 神学的・形而上学的なものに依拠せず、経験的事実にのみ認識の根拠を認める学問上の立場である。19世紀フランスの思想家・社会学者オーギュスト・コントによって唱えられた。 哲学の分野では理想主義、構成主義、方法主義などと対立した意味で使われることが多い。20世紀初頭に、哲学も自然科学同様の実証性を備えるべきであるとする主張がウィーン学団によってなされ、論理実証主義(論理的経験主義、新実証主義)と呼ばれた。 歴史学では、19世紀ドイツの歴史家ランケによって確立された。厳密な史料批判を行い、客観的な事実を確定し、事実のみに基づいた歴史記述を行うものである。マルクス主義の唯物史観、天皇中心の皇国史観など、歴史を特定の立場に都合よく利用する思想を排し、科学的・客観的に歴史を把握しようという立場から主張される。一方、実証主義を標榜する研究者が、しばしば瑣末な史料批判にこだわり、大局的な歴史認識を見失う場合もある。 科学の分野では論理実証主義の意味で用いられ、還元主義と共によく用いられる。素粒子物理学の分野ではまさに根源を探る上で重要な概念ともいえる。しかし生命、量子力学における観測問題など実証主義が適用できない場合もあり、新たな哲学を必要とする時代がきている。 法学の分野においては、道徳や自然法などの他の価値基準に拠らないで実定法のみに法体系の根拠をもとめる立場を法実証主義と呼ぶ。
科学哲学における実証主義 特に現代の文脈で使われる実証主義は、自然科学その他で取り上げられる、科学探究に対する態度の一つとしてのそれである。この場合、実証主義は「一般法則は観察と論理によってのみ正当化される」と主張する。そこからは当然ながら独断や啓示は排除される。実証は観察と論理によるから、主に帰納法がとられる。実証主義は20世紀前半まではあまり疑われずにいた思想であった。 ところが、ここで根本的な問題が生じる。「帰納法の使用に基づく実証そのものの正当性はいかにして正当化されるのか?」ということである。「全ての正当化が帰納法によってのみ行われうる」こともまた一つの一般法則(Lとする)であろう。すると、この一般法則Lもまた実証によってのみ正当化されねばならない。ここで、実証は帰納法に基づくから、一般法則Lもまた帰納法で証明される必要がある。ところが、帰納法の広い正当性をより狭い帰納法で証明することは基本的に論理的でなく、帰納法は基礎において厳密な論理的根拠がない。この事情から、帰納によってのみ実証するという意味での実証主義は、科学分野の基礎に足りなくなってきた。 なお、帰納法そのものは「斉一性の原理」すなわち「他の要因がない限り、事象は今まで通り動いていく」に基づいている。これもまた、実証されるべき一般法則であるが、当然ながらこれを実証することは不可能である。 現在では、実証主義に代わって、反証可能性を中心とした反証主義が主流になっている。 注意。ただし仮説でなく実験を行った場合、実験による観察から得られた見解をそれよりも広い資産運用 に適用する行為は、科学哲学以前に、科学として実証とは認められない。